写真:気仙沼町づくりセンター合宿のファシリテーションの様子
2013年5月15日をもって約2年間の宮城県気仙沼駐在が終えることとなった。
団体(ジャパン・プラットフォーム)としても個人としても初めての国内災害に対する本格的な対応であり、難しさとやりがいの中で、成長と反省の多い2年間だった。
気仙沼を初めて訪れたのは2011年4月、まだ自衛隊が瓦礫の撤去に入っていた。市街地では加工工場から流れてきた魚が、無造作に溢れかえっており、そんな風景を鮮明に覚えている。「自分に何ができるのか?」といった恐怖心を感じながら、気仙沼への支援に入った。
始まりは、気仙沼市社会福祉協議会の災害ボランティアセンター(災害VC)のスタッフとしての運営支援だった。毎日、被災した地域のニーズ調査や押し寄せる大量のボランティア受け入れに追われていた。
全国・世界からやってくるボランティアの方々を、どことどんなふうに早くマッチングするか、システマティックにこなすかという作業になっていた。
そんなある日、避難所の調査中に、1人の避難されているお母さんから「そんなに手伝わないでください。私たちが自分で何もできなくなってしまう」と言われた。衝撃的だった。
それまでは、単純にニーズを拾って、そこに人を入れて、作業をこなす。この「作業」の繰り返しであった。しかし、支援は作業ではなく、人がどうやって暮らしていくかを考えること、ということを被災されたお母さんから教えてもらった。瓦礫がなくなっても避難所から出ても人の暮らしは続いていく。そこまで考えるのが支援ではないだろうかと思うようになった。
その後、ジャパン・プラットフォームの国内事業部スタッフとなり、気仙沼でのネットワーク・集まる場つくりを行った。震災復興には、県内外から多くの支援が団体・個人から集まる。ただ、誰がどこでどんなことをしているのか、その把握はとても難しい。しかしその把握をしなければ、支援の穴・偏りが出てきてしまう。その穴を埋めるためには状況把握が必要であった。
そこで、気仙沼では「気仙沼NPO/NGO」連絡会を設置した。毎週金曜日、気仙沼市内で活動するNPO/NGOを対象に情報共有の場を作った。その環は次第に広がり、2011年8月には市・社協・NPO/NGO・企業等が集まる場となった。そこに集まれば気仙沼の支援の現状が分かる、会いたい人に会える、そんなヒトの集まる場所になった。
多くの被災地復興はまだまだこれからであり、今後もっと住民の方々が参加していかなければならない。住民の方々の参加が増えていく際に、復興やまちのことを考える多様なヒトが集まる場があれば、お互いに住むまちの未来が描けるのではないだろうか、そして、立ち上げに関わった「気仙沼NPO/NGO」連絡会がさらに発展してほしい。2年間の気仙沼での駐在を終える今、そんな想いを抱いている。
今後は、東日本大震災支援の経験、ジャパン・プラットフォームのもつネットワークを活かし、今後の国内災害への支援をより効果的にできるような準備を行う、国内災害対策事業を担当する予定である。気仙沼での経験を決して忘れることなく、新たな災害への備えをする役割を果たしていきたいと思っている。
写真:2011年7月の気仙沼大島
ジャパン・プラットフォーム 佐藤
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